友がみな我より偉く見ゆる日

読書とか登山の記録とか

読書を「難しさ」「速さ」「量」で語るヤツは『魍魎の匣』でぶん殴っていい

と、法律でも定められています。

『広辞苑』でも、『境界線上のホライゾン』でも構いません。『魍魎の匣』は読んだことないけど。

 

Twitterで読書アカウントの人をたくさんフォローしているんですが、「速く読めない」「難しい本が読めない」「たくさん読めない」と恥じる人を何人か目にしました。一方で、「一ヶ月に◯冊読む」ことを誇る人や、逆に「たくさん読める人は簡単な本を読んでいるだけ」とごちる人も見かけました。

 

僕は、「難しさ」「速さ」「量」の3点は、本を読む上で最もどうでもいい要素だと思います。

難しい本を読むほうが偉い、たくさんの本を素早く読むほうがすごい、という感覚は理解できますし、僕自身もそういう人に対して漠然とすごいなぁと思うことはあります。

ただ、これらを武器にマウントを取ってくるような輩はぶん殴ってやりましょう。持っている中で一番威力の高そうな本で殴りつけてやりましょう。ハードカバーのほうがいいかもしれません。

 

読書なんて所詮は娯楽です。

 

まず間違えてはいけないのは、本を読むことそれ自体は崇高なものでも褒められるべきものでもないということ。数ある娯楽の中の1つに過ぎません。スポーツとか音楽鑑賞とか映画鑑賞とかゲームとかと一緒。

副次的な効果として、読解力や文章力、想像力の向上や、知識の獲得などが期待できることは事実ですから、他人(例えば、自分の子供)に勧めたりするのは良いと思います。ただ、スポーツなりゲームなり他の娯楽を通して養われる能力も読書のそれとは別に存在するはずです。そういった「教養になる」的な面のみによって読書の優位性を語るのはやや偏った見方だと思います。

「難しさ」「速さ」「量」に勝ることを優れた読書家の要素として考える人たちは、「読書は教養的な行為である」という思想に基づいているように感じられます。難しい本を読めるほど頭が良い、速く読めるほど能力が高い、たくさん読めるほどたくさん教養が身につく、というように。

バカバカしい。

そういった側面があることは否定はできませんが、そんなことでマウントを取るなんてバカげている。たかが娯楽、趣味なんですから、好きな本を好きに読めばいいんです。読書だけが趣味な人はそりゃたくさん読めるでしょうが、他にも好きなことが色々ある人はそうもいきません。難しい本を読める人のほうが賢いかもしれませんが、簡単な本を楽しく読んでいる人を否定する権利はありません。

 

だから僕は、読書を勧めるコンサルタントだの、速読講師だの、そういう人種が大嫌いです。こういう本を読むといいよ、こうすると本を効率的に読めるよ、こうやると読書スピードが上がるよ、だとか。

うるせえ。

好きに読ませろ。どう読んだって偉くなんかねーーよ。

誤解のないように言っておくと、そういう人たちの教えを求める人を否定するつもりはありません。単に僕が嫌いなだけです。

 

それからもう1つ、少し関係するので書いておくと、「読書家」という言葉も僕はあまり使いたくありません。「読書家」という言葉は、よく本を読む人間は偉い、もっと言えば「難しい」本を「速く」「たくさん」読める人間ほど偉い、という意味を含む言葉であるように感じられるからです。優れた読み手でないと読書家を名乗れない、という空気もあると言っていいでしょう。

「読書家と言うには程遠いですが…」というように卑下してみせる人がいますが、僕はそんな必要はないと思っています。「読書家」を国語辞典で引くと、次のように書かれています。

www.weblio.jp

 

「よく本を読む人」ともありますが、僕は2番めの「読書を好む人」くらいの認識で良いのではないかと思います。本を読むことが好きな人は、みんな読書家を名乗ればいいんです。どんな本をどれくらい読むかに関わらず。

 

おわり。

 

 

アンカット特装版 魍魎の匣 (講談社ノベルス)

アンカット特装版 魍魎の匣 (講談社ノベルス)